彼特有のあいまいな発言や変わり身の早さによって与野党双方に足場を築き、議員の支持を得られるようになった。
退任時には彼への賞賛を惜しまない議員が増加した。
第二次大戦以降から現代までに見られた、FRBとホワイトハウスの摩擦の歴史を振り返ってみよう。
第二次世界大戦の戦費調達のために米国の国債発行額は膨大に累増していた。
このため、戦中から戦後にかけて、FRBは政府の強い要請に応じて、国債の金利を安定させるために国債価格維持政策(ペッキング)を継続していた(市場から国債を買い入れ、長期国債を二・五%に固定)。
当時は金融政策の最終的な判断は財務長官の了承を仰がなければならなかった。
しかし、朝鮮戦争に伴う景気拡大、インフレ率上昇に対処するため、FRBは国債価格維持政策からの離脱と金利引き上げを模索した。
MFRB議長は、実際は政府との摩擦を好まなかったが、スプラウル副議長、E理事(前議長)というFRB内で大きな影響力を持つ二人の論客に押されて、金融政策の独立確保に向けて動き出した。
それに対し、国債金利の低位安定を望んでいたT大統領、S財務長官らは激怒し、FRB幹部に対して強烈な圧力をかける。
親大統領派のFRB理事が協力したらしいスパイもどきの情報リーク、大統領サイドの露骨な虚偽発表(FRBが協調姿勢を示したという声明)、それに対する辞任覚悟のE理事による新聞へのリーク、など泥沼とも呼ぶべき政治的闘争が続く。
一九五○年二月に朝鮮半島の緊張が高まり、ホワイトハウスは第三次世界大戦を覚悟し始めた。
そうなれば、財務省は戦費調達のために国債を新たに増発する必要に迫られる。
財務省はFRBに対して、「現在は国家の非常事態である。
FRBは長期国債金利を二・五%以下に維持するべきだ」と主張した。
しかし、ホワイトハウスのあまりに強引な手法が、世論やマスコミの反発を買い始めた。
さらに、金融政策問題を審議していたP・ダG上院議員が率いる両院経済合同協議会小委員会為的な市場を作りながら、民間に対して政府自身が守ろうとしない金融上のモラルを押しつけることはできない。
隔離されペッグされた国債市場は、政府の信用を維持するどころか、かえって破壊することになる」。
世論の高まりとともに、結局、最終的に政府・財務省側が折れざるを得なくなる。
S財務長官が入院したため、長官の腹心である財務次官補MがFRBとの最終調整を行った。
一九五一年三月四日にFRBと財務省はアコード(金融政策と国債管理政策の分離)を締結する。
これにより、FRBは独立性の基礎を勝ち得ることに成功した。
KFRB議長に辞任を促す。
事実上の解任だった。
アコード発表からわずか五日後の三月九日、M議長は辞任を表明した。
そして、新議長に弱冠四五歳のM財務次官補を任命する衝撃的な人事が発表された。
ニューヨークタイムズは「大統領によるMの任命は、"イージーマネー"を望む財務省のバイアスをFRBに強要する企てであることが一目で分かる」(一九五一年三月一六日付)と書いている。
また、この騒動を当時のウォールストリートは「FRBは政府との戦闘に勝ったが、戦争に負けた」と評した。
MをFRB議長に任命する直前に、T大統領は面接を行っている。
大統領はMに「金利を安定させ、国債価格がパーを下回らないようにすることを約束できるか?」と尋ねた。
アコードによって国債価格維持政策から離脱したFRBを政府のコントロール下に再び組み入れることが大統領の目的だった。
しかし、Mは「マーケットは、王様や首相、大統領、財務長官、FRB議長に仕えるものではありません。
残念ですがお約束できません」と答えた。
Mが市場機能を重視する姿勢を示していたのは、ひとつには、ニューヨーク証券取引所のトップを務めるなど、ウォール街での経験があったからだと思われる。
T大統領は、Mの物怖じしない言い方に驚いているが、それはMが輸出入銀行総裁時代に政治家との駆け引きを学んだ経験によるものだろう。
この面接で納得がいかなかったTは、結論を保留した。
翌日、もう一度、大統領による面接が行われる。
大統領は「私は、何が起きても君はベストを尽くすという確信が欲一九六五年に勃発したホワイトハウスとFRBの対立は、一九五一年のアコード成立以降においては最大の摩擦だった。
K政権は景気浮揚策として一九六四年に財政刺激策(減税)を行った。
しかし、ホワイトハウスは、MFRB議長がインフレ抑制を意図して金融引き締めを行うことを警戒していた。
CEA委員長、財務長官、予算管理局長、FRB議長からなる「四人組会議」しいのだ」と語りかけた。
それに対してMは、ベストを尽くします、と答えた。
S財務長官の推薦もあって、ここで彼が次期FRB議長に任命されることが決定した。
後にMは「大統領と私の間で、市場に対する理解が一致していたとは思わなかったが、彼は私を任命した」と述懐している。
一九五一年四月二日(アコード成立の約一カ月後)にMは第九代議長としてFRBに乗りこむ。
しかし、間もなくT大統領は失望することになる。
「Mはすぐに大統領を裏切った」(当時のCEA委員長L)。
M新議長は、政府の意図に反して未だ脆弱であったFRBの独立性を強化すべく奔走したのであった。
数年後、Mはニューヨークの街中で、アイゼンハワーに負けて大統領の座から降りたTとぱったりと出くわしている。
その時、TはMをじっと見つめて一言、「裏切り者」と吐き捨てたという。
のである(日本の現代の経済財政諮問会議に似ている面がある)。
M議長は、減税の効果を金融引き締めで相殺しないように政権から事実上命じられた。
しかし、Mはインフレ率の上昇を警戒し、一九六五年一○月六日の「四人組会議」でJ大統領に金融引き締めを打診する。
しかし、反対論が相次ぐ。
大統領は「私は明日、胆嚢の手術で入院する。
入院中は利上げを待ってくれ」と述べた。
Mは「われわれは大統領が退院されるまで待ちます」と答えざるを得なかった。
二月一日に財務省のP・B金融担当次官(後のFRB議長)、オーサー・オークンCEA委員らが発表したレポートは、Mの立場をさらに厳しくした。
Bらは「物価は徐々に上昇するが、加速はしないだろう」と結論付けていた。
協調姿勢に欠けるMに苛立っていた政権スタッフの間からは、Mを更迭して、FRB議長をBに据えかえるべきだと大統領に進言する声も聞かれた。
J大統領の要請に応じて利上げを撤回したMであったが、一九六五年三月三日のFOMCで金利引き上げを遂に決意する。
それを嫌った政府高官は、FOMC開催前にM議長および他のFOMCメンバーへの圧力を高めた。
三月三日に開催されたFOMCでは、金融政策の独立性と政府への協調のバランスについて、メンバーの間で激しく議論が交錯した。
数人の理事は、政権は国民経済に対する政策運営の一義的な責任を負っているのだから、FRBは利上げの延期や、政権とのさらなる話し合いを行う。
テキサスの牧場にいたJ大統領は、利上げが決定された一九六五年三月三日のFOMCの結果を聞くと、あらん限りの勢いで激怒した。
彼はワシントンの議員に次々と電話をかけ不満をぶちまけた。
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